2011年12月17日土曜日

プロローグ

Macoは、いわゆる太平洋戦争中の1942年3月生まれである。

日本の戦況が悪くなるにつれ、兵庫県尼崎市から滋賀県愛知郡に疎開した。

引越し先の家は、母がたの親戚の家であった。その家は、空き家であった。

記憶をもとにその概要を示そう。

中山道に面した大きな家であった。

門をくぐると、前庭には大きな金木犀の木があった。この木が記憶にある
のは、秋になると小さいオレンジ色の花から放たれる強烈な匂いのせいである。

中に入ると、土間であり、左には2階建ての建物があった。

右には、上がり框をもった和室があった。広さは10~12畳ぐらいであり、
前庭に面して縁側があった。

さらに奥に進むと、すこし小さ目の和室があり、奥には2階への階段があった。

さらに進むと土間には井戸、かまどがあり、いわゆる炊事場であった。

この炊事場に面して和室があった。広さは12~14畳ぐらいであったか?
食事室であった。

土間をさらに奥に進むと、風呂の焚口があった。風呂は、いわゆる五右衛門
風呂であった。

そして、外に出た。

各3部屋の奥には同規模の和室があった。一番奥の和室はいわゆる客間であ
った。

いわゆる書院つくりの部屋であり、床の間があり、違い棚があった。一番大
きな部屋であった。

この部屋は廊下を隔てて、庭につながっていた。庭は枯山水の池に石橋が渡
してあり、奥の築山のある庭へとつながっていた。

廊下は、途中蔵の前の和室へとつながるとともに、直進すると食事室の横を
通り、風呂、便所へとつながっていた。

土間から外へ出ると左手に2階建ての建物があり、さらに進むと、蔵の前を
通り空き地へとつながっていた。空き地の奥には、2階建ての長屋があった。

これら家の内外にある建物は使用人用のためのものであったのであろう。

空き地から、塀の戸越に前述した築山のある庭の裏手に出た。築山のある庭と
の間は生垣で仕切られていた。

ここは、畑であった。この畑の周りは、生垣で敷地外と隔てられていた。

家の左手は道路であった。従って、中山道と交差するこの道路との角地に
位置していた。

左の道路とは、板塀で仕切られていた。

今の時代で考えると豪邸であった。いわゆる成功した近江商人の家であった。

この家に、もの心つく前から、小学5年生の秋まで過ごした。いわゆる幼
小期、幼年期はこの家で過ごしたことになる。

これから記憶を辿りながらこの家で過ごした幼少期、幼年期の出来事を書
うと思う。

記憶に基づくものであるから、必ずしも正確に年代順には、なっていない。

大筋では、できるだけ年代順になるようにするつもりである。

2 件のコメント:

  1. 何だか、白黒の世界
    頭の中に映画のように情景が映し出されてます。
    置手紙は何処でしょうか?

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  2. 60年程前の記憶に基づいて書いていますから、私にとっても白黒の世界のようです。

    置き手紙を設置しました。

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